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さくらのみのじゅくするとき

桜の実の熟する時

島崎 藤村

「文章世界」1913(大正2)年1~2月、1914(大正3)年5月~1918(大正7)年6月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 111,569 字 · 222 页

青空文庫

迫った岡はその辺で谷間のような地勢を成して、更に勾配の急な傾斜の方へと続いて行っている。丁度他に往来の人も見えなかった。彼は古い桑の木なぞの手入もされずに立っている路の片側を択って歩いた。出来ることなら、そこに自分を隠したいと願った。進めば進むほど道幅は狭く成っている。俥は否でも応でも彼の側を通る。彼は桑の木の方へ向いて、根元のあたりに生い茂った新しい草の緑を眺めるともなく眺めて、そこで俥の通過ぐるのを待った。曽ては親しかった人の見るに任せながら、あだかも路傍の人のようにして立っていた。

カタ、コトという音をさせて俥は徐やかに彼の背後を通過ぎて行った。

まだ年の若い捨吉は曽て経験したことも無いような位置に立たせられたことを感じた。眺めていた路傍の草の色は妙に彼の眼に浸みた。最早彼は俥と自分との間にある可成な隔りを見ることが出来た。深く陥没んだ地勢に添うて折れ曲って行っている一筋の細い道が見える。片側の藪の根キに寄りながら鬱蒼とした樹木の下を動いて行く俥が見える。繁子は白い肩掛に身を包んで何事かを沈思するように唯俯向いたままで乗って行った。

捨吉から見れば五つばかりも年上なこの若い婦人と彼との親しみは凡そ一年も続いたろうか。