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さくらのみのじゅくするとき
桜の実の熟する時
島崎 藤村
「文章世界」1913(大正2)年1~2月、1914(大正3)年5月~1918(大正7)年6月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 111,569 字 · 222 页
十二月の末らしい日の光は、二階の教場の窓硝子を通して、黒板の上まで射して来ていた。彼は新しい白墨の一つを取り、その黒板に心覚えの詩の句を書きつけ、それに寄せて生徒に別離を告げた。若くて貧しい捨吉は何一つ自分の思慕のしるしとして勝子に残して行くような物をも有たなかった。僅かに、その年齢まで護りつづけて来た幼い「童貞」を除いては。
涙一滴流れなかった。それほど捨吉は張りつめた心で勝子から離れて来た。牛込の下宿に帰ると彼は麹町の教会の執事に宛てて退会の届を認めた。
御届
私儀感ずるところ有之、今回教会員としての籍を退きたく、何卒御除名下されたく候。
と書いた。切ない恋のためには彼は教会をさえ捨てて出て行く気に成った。
ぶらりと捨吉は恩人の家の方へ帰って行った。麹町の学校を辞すると間もなく、牛込の下宿も畳んで、冬休みらしい顔付で僅かの荷物と書籍とを田辺の門の内へ運んだ。自分の為たこと、考えることに就いては、何事も目上の人達に明そうとはしなかった。
「兄さん」
と大きくなった弘が捨吉を見つけて飛んで来た。何時見ても人懐こいのは弘だった。捨吉は何とも言って見ようのないような心持で、すがりつく弘の身を堅く抱締めた。