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さくらのみのじゅくするとき

桜の実の熟する時

島崎 藤村

「文章世界」1913(大正2)年1~2月、1914(大正3)年5月~1918(大正7)年6月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 111,569 字 · 222 页

青空文庫

途中で捨吉が振返って見た時は、まだ兄妹は枯々とした田圃側に立って見送っていてくれた。

裏道づたいに捨吉は平坦な街道へ出た。そこはもう東海道だ。旅はこれからだ。そう思って、彼は雀躍して出掛けた。

一里ばかり半分夢中で歩いて行った。そのうちに、黙って出て来た恩人の家の方のことが激しく捨吉の胸中を往来し始めた。狂人じみた自分の行為はどんなに田辺の小父さんや、姉さんや、それからあのお婆さんを驚かし、かつ怒らせたであろうと想像した。大川端の兄の驚きと怒りと悲みとをも想像した。その考えから、捨吉は言いあらわしがたい恐怖にすら襲われた。彼は日頃愛蔵する書籍から、衣類、器物まで、貧しい身に貯えた一切のものを恩人の家に残して置いて来た。どうかしてこの自分の家出が、単なる忘恩の行為でなしに、父母から背き去り墨染の衣に身をやつしても一向道を急ぐあの憐むべき発心者のように見られたいと願った。

海に近いことを思わせるような古い街道の松並木が行く先にあった。捨吉は路傍にある石の一つに腰掛けて休んだ。そして周囲を見廻した。眼前には、唯一筋の道路と、正月らしく映って来ている日の光とがあるばかりであった。