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さくらのみのじゅくするとき

桜の実の熟する時

島崎 藤村

「文章世界」1913(大正2)年1~2月、1914(大正3)年5月~1918(大正7)年6月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 111,569 字 · 222 页

青空文庫

真勢さんは一風変っているというところから、「哲学者」という綽名で通っていた。アーメン嫌いな田辺のお婆さんや細君の前で真勢さんは別に宗教臭い話をするでもなかった。この人の基督教信者らしく見えるのは唯食事の時だけであった。その食前の感謝も、極く簡単にやった。真勢さんのは膝を撫で撫で眼をつぶって一寸人の気のつかないようにやった。

真勢さんは捨吉からしきりに夏期学校の催しを聞こうとした。井戸端から湯殿の側の方へ、白い土蔵の壁の横手の方へ捨吉を誘って行って話した。

「なにしろ、そいつは可羨しい。多忙しい身でないと一つ聞きに出掛けたい……安息日すら守ることも出来ないような始末ですからな……尤も自分の信仰だけはこれで出来てる積りなんですけれど……基督だけはちゃんと見失わない積りなんですけれど……」

教会の空気に興味を失った捨吉にも、こうした信徒の話は可懐しかった。真勢さんは築地の浸礼教会に籍を置いていて、浅見先生の教会なぞとは宗派を異にしたが。

湯殿の側を離れてから、二人はもうこんな話をしなかった。捨吉は玄関の小部屋へ行って出掛けるばかりに風呂敷包を用意した。何か新しいものが彼を待っている。