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さくらのみのじゅくするとき
桜の実の熟する時
島崎 藤村
「文章世界」1913(大正2)年1~2月、1914(大正3)年5月~1918(大正7)年6月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 111,569 字 · 222 页
小父さんは用事ありげに桟敷を離れたり復た覗きに来たりした。茶屋の若いものが用を聞きに来ると、小父さんは捨吉の方を見て、
「どうぞ沢山御馳走して遣って下さい」
と微笑を含んで言った。
日の暮れないうちから芝居小屋の内部には燈火が点く。桟敷の扉を泄れる空の薄明りが夢のような思いをさせる。鼻液をかむ音、物食う音、ひそひそ話す声、時々見物を制する声に混って、御簾の下った高い一角からは三味線の音が聞えて来る。浄瑠璃の調子に合せて、舞台の上の人は操られるように手足を動かしたり、しなやかな姿勢をしたりした。どうかすると花やかな幕が開けた。人形のように白い顔をした若い男と女とが舞台の上にあらわれて、背中と背中とを触合わせたり、婉曲に顔を見合わせたり、襦袢の袖を濡らしたりした。
「成駒屋」
唸るような見物の大向から掛ける声が耳の底にある。
麦畠の中で熱い接吻をかわすという英詩の文句が岸本の眼前には開けてあった。それは学校の図書館の本で英吉利の詩人バアンズの評伝中に引いてある一節であった。岸本は不思議な感じに打たれた。あの英吉利の詩人の書いたものに自分はこれほどの親しみを有つことが出来て、見たこともないスコットランドあたりの若い百姓が何となくそこいらに転がっているような気持をさせるのに、どうして自分の国の芝居小屋で舞台の上に