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さくらのみのじゅくするとき
桜の実の熟する時
島崎 藤村
「文章世界」1913(大正2)年1~2月、1914(大正3)年5月~1918(大正7)年6月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 111,569 字 · 222 页
それほど捨吉はお母さんから遠かった。お父さんが亡くなったことを聞いた時すら、帰国は叶わなかった。唯一度――郷里の方で留守居するお母さんや嫂を見に帰って行ったことがある。その時は兄の代理として、祖母さんのお送葬をするために出掛けたことがある。それぎりだ。すべては彼の境涯が許さなかった。
お母さんは隅田川の見える窓に近く行って、東の方の空を拝んだ。毎朝欠かしたことも無いように軽く柏手を打って、信心深い眼付で祈願を籠めるそのすがたを、捨吉は久し振で見た。何か心配あっての上京とは、お母さんを見た時一番先に捨吉の胸へ来た。単独な女の旅という事も思い合された。長い留守居で、お母さんも年をとった。朝になって見て余計にそれが捨吉の眼についた。深い谿谷の空気に揉まれたお母さんの頬の皮膚の色は捨吉が子供の時分に見たまま、まだ林檎のような艶々とした紅味も失われずにあったが。
周囲は下町らしい賑かな朝の声で満たされた。納豆売の呼声も、豆腐屋の喇叭も、お母さんの耳にはめずらしいもののようであった。お母さんは田舎風の黒羅紗のトンビを引きよせ、部屋に居てもそれを引掛けて、寒い国から東京へ出て来たという容子をしていた。