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くすのきのはなし
楠の話
豊島 与志雄
「文章世界 第拾四卷第四號」博文堂、1919(大正8)年4月1日
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 10,820 字 · 22 页
「お父様の身体のために」と母は私に云った。父はもう長い前から結核に侵されていた。そしてその頃急に弱って来た。私はそれが悲しかった。その冬には父は一度も銃を手にしなかった。私もいつのまにか楠の方へは行かなくなってしまった。そして父と共に、池の鯉に餌をやるのを楽しみとした。池には赤や黒やまた種々な変り鯉が一杯居た。
元の広い大きい家は、暫くの間戸がしまったままになっていたが、そのうち大勢の見知ぬ人が来て、すっかり壊して何処かへ運んでしまった。然し私は別に悲しくもなければ、何とも思いもしなかった。此度の家の方が新らしくて明るく、また座敷からすぐに池の鯉も見られたので。
ただ一つ不思議なことは、元の大きい家が、瓦がはがれ壁が落され柱が倒されて、大勢の人が騒がしく立ち働いているのに、父も母もその方へは一度も行かなかったことである。いつも何かの職人が来ると、父は親しく仕事を指図し、母は女中に手伝わして種々御馳走をしたものだった。所がその時だけは全く有様が違っていた。また大勢の人夫共の方も私の新らしい家へは顔も出さなかった。両者の間が丸で何等の交渉もないもののようだった。