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くすのきのはなし

楠の話

豊島 与志雄

「文章世界 第拾四卷第四號」博文堂、1919(大正8)年4月1日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 10,820 字 · 22 页

青空文庫

私も黙ってその後について行った。父の顔はこれまで甞て見たこともないほど朗かだった。病のために少し紅潮をさした頬の皮膚が、初夏の光りの中に透き通って見えた。

暫く歩いていると、父は突然立ち止って、「新らしい家と元の家とどちらが好きか。」と私に尋ねた。「新らしい家の方がいい。」と私は即座に答えた。父は大きく眼を開いてじっと私の顔を見たが、「本当か。」ときき直した。私はすぐに大きく首肯いてみせた。すると父は何か云いかけたが、その言葉が私の耳に達せぬうちに激しく咳き入った。

それから私達は家に帰った。そして母と一緒に三人で朝食をした。食後父はすぐ床にはいった。

その日は実際妙な日だった。父は寝ながらじっと眼を開いていた。顔には自然の朗かさがあり、眼には澄んだ憂いが湛えていた。母は金庫の中から種々な書類を出して来て、父の枕頭でそれを調べているらしかった。それがすむと、箪笥の中を片附けはじめた。時々眼を拭いていた。

私は一人で広い屋敷の中を歩き廻った。学校を休んだことが、もういつのまにか一種の喜びの情に代っていた。友達等が皆狭苦しい教室の中にかしこまっている間に、自分は自由に屋敷の中を駈け廻り得ることが愉快でたまらなかった。