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もみノきはのこった

樅ノ木は残った

山本 周五郎

03 第三部

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 167,285 字 · 330 页

青空文庫

現に、いちどは兵部を兄の敵として、その首を覘おうとしたこともある。だが、自分にはそんな力のないことがわかったし、六郎兵衛に利用されているのだと知って、仇討などということは、すっかり断念していた。

新八はもう、兄の仇を討とう、などとは思っていない。初めからそんな気持はなかったようだ。ただ六郎兵衛に示唆されて、いっときいさみ立っただけのようである。――いまではすっかり忘れていたくらいだったが、雅楽頭と兵部の取り交わした証書、ということを聞くと、やはり一種の緊張と、昂奮を感じずにはいられなかった。

「たしかに」と云う、男の低い声が聞え、おみやが「たしかにそれでしょうね」と念を押した。

「筆跡を知らないから、文言で判断するほかはないが、この文言はたしかだと思えるし、一ノ関の花押はまちがいない、よくやってくれました、このとおりです」

「待って下さい、そんなことはなさらないで、どうかお手をあげて下さい」とおみやが云った、「もういちどうかがいますが、これであなたのお望みはかなったわけですわね」

男がなにか答え、おみやが遮った。

「失礼ですけれど、わたくしにいちどお酌をして下さいまし、いちどだけでようございます、それから聞いて頂くことがあるんです、憚りさま、有難う」