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もみノきはのこった
樅ノ木は残った
山本 周五郎
03 第三部
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 167,285 字 · 330 页
甲斐は無表情に、しかし相手の期待にほどよく応じながら、巧みに話題を変えて、綱宗の近況を訊いた。
「さよう、このごろはずっとおちついておられます」と備前は答えた。
綱宗はおちついている。ひところからみると、性格が変ったようである。酒はいまでもかなり飲むが、まえのように乱れることは殆んどないし、半年ばかりまえから、華厳経と詩文の勉強をはじめ、どちらも熱心に続けているようである、と備前は云った。甲斐は「華厳経」と云って、備前の顔を見た。
「さよう、十日に一度ずつ、良源院の住持が来て、講義をされております」
「玄察老ですか」
「――老というと」
「いや、これは」と甲斐は微笑した、「住持は私とさほど年は違わないのだが、いかにも老師の風格があるので、たわむれにそう呼ぶ癖がついていたのです」
「よほど御昵懇とみえますな」
「私も講義を聴いたほうです」
「やはり華厳ですか」
甲斐はあいまいに、なにをというほどのこともないと答え、備前は、今宵は住持も召されている、と云った。ほどなく取次の者が来て、甲斐は立ちあがった。
中ノ口から外へ出て、木戸を二つ通り、奥庭へはいっていった。取次の者が先に立ち、次に甲斐、うしろに成瀬久馬が続いた。