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もみノきはのこった

樅ノ木は残った

山本 周五郎

03 第三部

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 167,285 字 · 330 页

青空文庫

乳母が寄って来て、抱き取ろうとしたが、鶴千代ははなれなかった。綱宗は「乳母に抱かれ」と云ったが、鶴千代は両手で甲斐の頸にしがみついたまま、泣きじゃくっていた。

甲斐の胸は、ふしぎな感動で、いっぱいになった。しがみついている、幼ない、小さな腕の力と、躰温と、そして頬を濡らす涙とが、皮膚をとおして、身内に深くしみとおり、そのまま血の中に混りあうように感じられた。

「もういい、とってやれ」と綱宗が云った、「おれが悪かった、抱かれたら叩けと、おれが知恵をつけたのだ、耳でも鼻でも引っぱれ、顔を叩いてやれ、と云っておいたのだ」

甲斐は鶴千代を乳母に渡し、綱宗は鶴千代に云った。

「よし、もう泣くな、和子が悪いのではない、甲斐は和子を怒ってはいない、泣きやんで、あちらへいっておやすみ」

乳母たちは去ってゆき、甲斐はふところ紙を出して、濡れた頬を静かに拭いた。玄察は箸を使っていて、綱宗は甲斐に酌をしろと命じ、「くびじろの話しを続けろ」と云った。甲斐は話し続けた。

夫人や侍女たちは、熱心に聞いていたが、綱宗はほかのことを考えているようであった。そのころから飲みかたが早くなり、くっと呷っては酌をさせ、そして、どこかをじっとみつめながら、またくっと呷る、というふうであった。