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ぎせいしゃ

犠牲者

平林 初之輔

「新青年」博文館、1926(大正15)年5月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 18,364 字 · 37 页

青空文庫

此の世に希望を失った人生の落伍者が、あてどのない八つあたりの不平と自己嫌悪とに気を腐らして、人生の行路さながらの吹雪道を無目的に歩いているように見える。

しかし、十時の夜勤をすまして駒込の自宅へ徒歩で帰ろうとしている、浅野護謨会社事務員今村謹太郎ははたで思う程あわれな存在ではなかった。第一雪道を歩くのは経験のない人が想像する程寒いものではない。少しくらい靴の皮をとおして水気が足へしみこんだところで、摩擦の熱は、それを蒸発させるに十分である。歩行の速度を少しばかり速めさえすれば、運動が熱にかわって必要な程度に全身が温まってくる。むしろ雪道を歩くのは汗の出る仕事である。今村は、暗い空から無限に湧いては、軒灯の光の中を斜めに切って、ほてった顔にばらばらと降り注いでくる灰色の雪の冷たい感触をむしろ享楽していた。彼が、一見風に吹かれてよろけているように見えたのは、実は、一歩一歩大地を踏みしめる足の下から、温泉のように湧き上って来る幸福な思想のばねにはねかえされて躍っているのであった。

実際今村はお伽噺の王子のように幸福であった。吹雪は、自然が彼の幸福にささげてくれる伴奏のように彼には思われた。