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しほんたいへいき

私本太平記

吉川 英治

03 みなかみ帖

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 126,598 字 · 254 页

青空文庫

「どれや、拝見」

法師は、扇へ、ちょっと礼をしてから見た。

世のなかの

女にしあれば

吾が渡る

痛足の川を

わたりかねめや

「オ、これは当所の、痛足川を歌うた万葉の一首。歌の心に寄せて、と小書きがあってもよかったな。……さて、わしの番か。その筆、貸して給われい」

法師も、べつな扇へ、さらと、何やら書いて、返した。

「……あっ?」

何気なく、受けた扇は、はッと、蝶が羽ばたくように彼女の手で慄えをみせた。そして、良人の扇折りの机へ擦り寄るなり、夫婦は、しびれたように、二つの顔を寄せ合って、扇の文字に、一とき、息も絶えたような容子であった。

久しく都に見失ひける服部ノ元成と卯木となんいひける者の、

変り果てたる姿を、長谷のあたりに、ふと見いだしければ

と、前書きがあって――

籠口(古き地名)の

初瀬の山の山際に

いざよふ雲は

妹にかもあらぬ

と、万葉集のうちの一歌が書いてあったのだった。

しばらくしてから。

扇折りの夫婦も、やっと心に平調をとり戻したらしい。姿を並べて――、といっても、さも肩身がせまいもののように、旅法師の前へ出て手をつかえた。

「失礼ですが、一体、どなたでいらっしゃいましょうか。