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しほんたいへいき

私本太平記

吉川 英治

03 みなかみ帖

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 126,598 字 · 254 页

青空文庫

「よんでくれい」

社家の奥でも、賑やかな人声がしていた。宿泊中の山田申楽の一座だ。――その人々の話し相手にでもなっていたのだろう。楠木家の家職(家老)で、よく人を笑わせたりするので、誰にも親しまれている恩智左近が、赤ら顔に、雪をとまらせたような白い眉を、きょときょと動かしながら、

「ほう、御舎弟さまには、そんな所に」

と、正季の腰かけていた石段口の大きな松の根かたへ、せかせかとやって来た。

「爺。……困ったことに相なったぞ」

「とは、何事で」

「延期だ。あすの雨乞いは」

「怪態なことを仰せられますな?」

左近は、白い眉に皺をよせた。葡萄の果肉みたいな眸でじっと見られると、正季には、ちと恐かった。腕白時代から、家来ではあっても、恐い爺と、烙きつけられていたからだ。

「とにかく、そちは兄上から、雨乞い奉行をいいつかっておる者ゆえ、そのつもりでいるがいい」

「では、日延べして、神事はいつから御奉仕しますな?」

「そこは、わからぬ」

「こは、面妖な」

「爺。もっと寄れい。ちと、秘策だ」

正季は、声を落した。――そして、中院ノ俊秀と天見ノ五郎を使いとして、加賀田の毛利時親が、わざわざ忠言してよこした計を、ざっと伝えた。