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しんのゆうしゅう
秦の憂愁
豊島 与志雄
「文芸」1944(昭和19)年11月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 9,389 字 · 19 页
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星野は佗びしい気持で、食慾も起らず、ただウイスキーを飲んだ。耳はひとりでに、大気を満してる騒音に傾けられていた。得体のはっきりした東京の騒音と異ってることが、旅情を深めた。旅情のうちには、蘇州の若い女の清麗な面影も浮んだ。それが、ふと、対蹠的な機縁で、或る時の秦啓源の姿をも思い出させた。
秦啓源が東京にいる時、赤坂の芸妓の梅子と深い仲だったのは、星野たち一同には周知のことだった。梅子はもう二十六七歳の、芸者としては年増の方で、ただなよなよとしただけの女だった。どこに惚れあったのか、それは当事者以外には分らぬことだが、二人は深く言い交していたらしい。正式に結婚するつもりだとも秦啓源は公言していた。それが、どうした事情か、梅子は他にも旦那を持つと共に、暫く座敷を休んだ。
その頃のこと、秦と星野と、やはり文学者仲間の田中と、三人で、或る夕方、虎ノ門の近くを歩いていると、梅子に行きあった。
夕方といっても、残照の澄んだ、よく見通しのきく一刻だった。梅子は一人で、街路の向う側を歩いてきた。それを秦は真先に見付けた。ひきつめ加減の洋髪で、着物の沈んだ臙脂色の縞柄に、帯の牡丹の花の金色が浮きだしている。