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しんのゆうしゅう
秦の憂愁
豊島 与志雄
「文芸」1944(昭和19)年11月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 9,389 字 · 19 页
秦は何とも知れぬ奇声をあげた。そして三四歩駈けだした。とたんに、疾走してきた自動車が前を掠め去った。秦は車道の真中に佇んだ。
向うの人道では、梅子が一足ふみ止った。顔色をかえて見つめた。そして一瞬間、軽くしかししとやかにお辞儀をして、あのなよなよとした彼女が、小股の足並も乱さず歩み去ってしまった。
この出会の情景は、星野には極めて当り前のことに思われたが、秦啓源には奇妙な印象を与えたらしい。彼は暫く口を利かなかった。よろめくような歩き方だった。そしてその夜、銀座裏のバーで酔っぱらいながら、異民族間の距ては如何ともしがたいなどと、梅子のことについてではなく、一般論として言いだした。それから更に、日本人は全体として中国人を蔑視してるとまで言った。
敏感な星野は、話を梅子のことに引き戻しながら、一般論として弁護した。――あの時の彼女はそれならば、どうすればよかったのか。あの態度は、私情を芸妓としての教養で包みこんだ、立派なものではなかったか。あの一見素気ないような態度は決して秦を他国人として蔑視したものではない。かりに秦を日本人だったとして、同じ場合に臨んだものとしても、彼女の態度には聊かも変りはなかったろう。