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はこねのやま
箱根の山
田中 英光
「文藝春秋 別冊2」1946(昭和21)年5月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 16,963 字 · 33 页
その中、前を行く一郎がへんに蟹股になって来たと思ったら、もう怺え切れぬ様子で、「お父さん、うんこ」とその場に蹲んでしまった。「よし、よし」林の間の空地に抱いて行き、あわてて用を足させてやりながら、遙かに蒼茫と相模灘の霞んだ風景を、夢の中でのような思いで眺めながら、私も幾度かの野糞の爽やかな経験を思い浮べていた。
どうも便の具合では疲労の余り、催おしたらしい柔かさだったが、ここで甘い言葉をかけてはならぬと、また手を引いて単調な杉林の路を登って行った。三十度ほどの勾配の路が五、六間続くと、四十度ばかりの角度でくるりくるりと左右に折れる。そうした同じ路の繰返しに私もほとほと倦きかけた頃、ふと右側のまばらな杉林の中に、一条の小路があり、それが上の街道へ繋っているのを発見した。これはしめたと、私は一郎の手を引いて、その薄暗い杉林の中の近路に這入って行ったが、ムッとする草の匂い、土の香り、磊々たる石を踏み、湿潤の泥を踏んで行けば、一郎にはこれこそ本当の山と言う歓喜が、胸を突き上げて来たらしく、「お父さん、お山だねッ、これが本当のお山だねッ」
先程までの山道では人工的で、広過ぎて、どうしても感覚的なものを通じて能く物の本質を見抜く幼児の心には、本物の山とは思えなかったのだろう。