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はこねあたみバスきこう

箱根熱海バス紀行

寺田 寅彦

「短歌研究」1935(昭和10)年6月1日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 5,181 字 · 11 页

青空文庫

いくら唾を呑込んでみても直らない。人の物いう声が遠方に聞こえる代りに自分の声が妙に耳に籠って響くので、何となく心細くなってしまった。

熱海は自分にはずいぶん思い出の多い土地である。明治十九年に両親と祖母に伴われて東海道を下ったときに、途中で祖母が不時の腹痛を起こしたために予定を変えて吉浜で一泊した。ひどい雨風の晩で磯打つ波の音が枕に響いて恐ろしかったのが九歳の幼な心にも忘れ難く深い印象をとどめた。それから熱海へ来て大湯の前の宿屋で四、五日滞在した後に、山駕籠を連ねて三島へ越えた。熱海滞在中漁船に乗って魚見崎の辺で魚を釣っていたら大きな海鰻がかかったこと、これを船上で煮て食わされたが気味が悪くて食われなかったようなことなどを夢のように覚えている。東京から遥々見送って来た安兵衛という男が、宿屋で毎日朝から酒ばかり飲んでいて、酔って来ると箸で皿を叩きながら「ノムダイシ、一升五合」(南無大師遍照金剛)というのを繰返し繰返し唱えたことも想い出す。考えてみるとそれはもう五十年の昔である。

三十年ほど前にはH博士の助手として、大湯間歇泉の物理的調査に来て一週間くらい滞在した。