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きくちよしょう

菊千代抄

山本 周五郎

「週刊朝日春季増刊」朝日新聞社、1950(昭和25)年4月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 36,178 字 · 72 页

青空文庫

こう思った。けれどもそれはまったく不可能であった。葦屋の動作は菊千代の全身を麻痺させ、頭までしびれさせた。固くつむった眼のまえに虹彩のような光りが飛び交いいつか夢中で自分から葦屋に抱きついてさえいたようだ。

「お姫さまとだけ、お姫さまとわたくしと、二人だけ」葦屋はうわずった声で菊千代の耳へ口を寄せて囁き、そして呻いた、「――そのほかには誰にも、誰にも決して……お姫さま、わたくしのお姫さまどうぞいつまでも」

その夜の経験のこまかい部分はよくわからない、ただ呼びさまされた感覚だけは、葦屋の無礼を証明するかのように、朝まで反復して菊千代をおそった。

松尾が起きる時刻を知らせに来たとき、菊千代は顔をそむけたまま気分が悪いといった。からだ全体がだるく、頭に泥でも詰ったような感じだった。おそらく醜い顔をしているであろう、誰にも会いたくないし、このままどこかへいってしまいたいような気持だった。……そうしてまた眠ったらしい、こんどははっきり眼がさめ、夜半の経験が夢でなく、現実に葦屋の辱しめを受けたのだということ、それが異常な感覚として、現に自分のからだに残っていることを認めた。