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きくちよしょう

菊千代抄

山本 周五郎

「週刊朝日春季増刊」朝日新聞社、1950(昭和25)年4月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 36,178 字 · 72 页

青空文庫

「――葦屋、……あの女め」

菊千代はさっと蒼くなった。葦屋は自分が女であることも知った、生かしてはおけない、どうしても生かしておいては。……菊千代は鈴を振って松尾を呼び、着替えをしてから、「――葦屋にまいれと云え」こう云って刀を取った。葦屋はすぐに来て、媚びた笑い顔でこちらを見あげた。襖際に手をついている。

「お召しでございますか」

「――はいれ」

菊千代がそう云ったとき、葦屋はとっさに危険を感じたらしい、はいろうとした姿勢がそのまま逃げ腰になった。

「おのれ、逃げるか」

菊千代はこう叫んで刀を抜いた、葦屋は身をひるがえし、次の間から廊下、そして庭へと走り出た。菊千代は刀を右手に追って来た。うしろで松尾がなにか叫び、わらわら人の騒ぎたつのが聞えた。

「待て、逃げようとて、逃がしはせぬぞ」

菊千代は絶叫した。葦屋は裾を乱し、狂気のように悲鳴をあげた。髪もほどけた、いちど庭を流れている水へ落ちこみ、裾が濡れたので、栗林のところで激しく倒れた。距離は十歩ほどである、葦屋は笛のような声をあげ、はね起きて坐って、絶え絶えに喘ぎながら、大きく眼をみはって、喪心したようにこちらを見た。