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きくづきよ

菊月夜

山本 周五郎

「講談雑誌」博文館 、1944(昭和19)年10月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 16,129 字 · 32 页

青空文庫

奉行がそばからそう説明した。……狂人は襤褸に包まれていた。むぐらのように茫々と乱れた髪の下から、するどく光る野獣のような双眸でじっとこちらを見まもっていたが、とつぜん嗄れた声で、

※(歌記号、1-3-28)……信夫の浦を朝漕ぐ小舟

さし寄せよ

夜こそ訪ひ来ね

君をおきてあだし心を

わがもたばや……。

そう俗歌のひとふしを唄いだした。

「やかましい、しずかにせぬか」奉行がどなりつけるのをしおに、信三郎はそこを離れ、奉行役所へ戻った。彼は『信夫の浦』という俗歌を知っている、それは古調の風俗うたで、佐垣家の老下僕がよく口にしたのを聞き覚えた、しかし狂人の唄ったのとは少し違うのである、――信夫の浦を朝漕ぐ小舟、さし寄せよ、というまではおなじであるが、そのあとは、――我さへ乗りてな、信夫の 信夫の浦を見むや というのだった、『……夜こそ訪ひ来ね』とはまるで聞いたことのない文句である。

その夜八時を過ぎてから、信三郎はなんの前触れもなく牢舎を叩いた。役人は大目附の不意の検察にびっくりしたが、信三郎は「御用の筋による内密の調べだ」といい、病囚溜りへ案内させた。