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なおこ
菜穂子
堀 辰雄
楡の家 第一部「物語の女」山本書店、1934(昭和9)年11月<br> 楡の家 第二部「文学界」1941(昭和16)年9月号<br> 菜穂子「中央公論」1941(昭和16)年3月号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 88,758 字 · 173 页
私は何んとしてもいまだに此の日記の母をうけいれるわけにはいかないのである。――お母様、この日記の中でのように、私がお母様から逃げまわっていたのはお母様自身からなのです。それはお母様のお心のうちにだけ在る私の悩める姿からなのです。私はそんな事でもって一度もそんなに苦しんだり悩んだりした事はございませんもの。……
私はそう心のなかで、思わず母に呼びかけては、何遍もその手帳を中途で手放そうと思いながら、矢っ張最後まで読んでしまった。読み了っても、それを読みはじめたときから私の胸を一ぱいにさせていた憤懣に近いものはなかなか消え去るようには見えなかった。
しかし気がついてみると、私はこの日記を手にしたまま、いつか知らず識らずのうちに、一昨年の秋の或る朝、母がそこに腰かけて私を待ちながら最初の発作に襲われた、大きな楡の木の下に来ていた。いまはまだ春先きで、その楡の木はすっかり葉を失っていた。ただそのときの丸木の腰かけだけが半ば毀れながら元の場所に残っていた。
私がその半ば毀れた母の腰かけを認めた瞬間であった。この日記読了後の一種説明しがたい母への同化、それ故にこそ又同時にそれに対する殆ど嫌悪にさえ近いものが、突然私の手にしていた日記をその儘その楡の木の下に埋めることを私に思い立たせた。