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なおこ
菜穂子
堀 辰雄
楡の家 第一部「物語の女」山本書店、1934(昭和9)年11月<br> 楡の家 第二部「文学界」1941(昭和16)年9月号<br> 菜穂子「中央公論」1941(昭和16)年3月号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 88,758 字 · 173 页
その屋敷を取囲んだ数本の椎の木は、植木好きだった父をいつまでも思い出させるような恰好をして枝を拡げた儘、世間からこの母と子の平和な暮しを安全に守っているように見えた。圭介はいつも勤め先からの帰り途、夕方、折鞄を抱えて坂を上って来て、わが家の椎の木が見え出すと、何かほっとしながら思わず足早になるのが常だった。そして晩飯の後も、夕刊を膝の上に置いたまま、長火鉢を隔てて母や新妻を相手にしながら、何時間も暮し向きの話などをしつづけていた。――菜穂子は結婚した当座は、そう云う張り合いのない位に静かな暮しにも格別不満らしいものを感じているような様子はなかった。
唯、莱穂子の昔を知っている友達たちは、なぜ彼女が結婚の相手にそんな世間並の男を選んだのか、皆不思議がった。が、誰一人、それはその当時彼女を劫かしていた不安な生から逃れるためだった事を知るものはなかった。――そして結婚してから一年近くと云うものは、菜穂子は自分が結婚を誤たなかったと信じていられた。他人の家庭は、その平和がいかによそよそしいものであろうとも、彼女にとっては恰好の避難所であった。少くとも当時の彼女にはそう思えた。