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なおこ
菜穂子
堀 辰雄
楡の家 第一部「物語の女」山本書店、1934(昭和9)年11月<br> 楡の家 第二部「文学界」1941(昭和16)年9月号<br> 菜穂子「中央公論」1941(昭和16)年3月号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 88,758 字 · 173 页
この頃は夜なかなどに、菜穂子がいつまでも眠れないでつい咳などをしたりすると、隣りの部屋に寝ている圭介の母はすぐ目を醒ました。そうすると彼女はもう眠れなくなるらしかった。しかし、圭介や他のものの物音で目を醒ましたようなときは、必ずすぐまた眠ってしまうらしかった。そんな事が又、菜穂子には何もかも分かって、一々心に応えるのだった。
菜穂子は、そう云う事毎に、他家へ身を寄せていて、自分のしたい事は何ひとつ出来ずにいる者にありがちな胸を刺されるような気持を絶えず経験しなければならなかった。――それが結婚する前から彼女の内に潜伏していたらしい病気をだんだん亢じさせて行った。菜穂子は目に見えて痩せ出した。そして同時に、彼女の裡にいつか涌いて来た結婚前の既に失われた自分自身に対する一種の郷愁のようなものは反対にいよいよ募るばかりだった。しかし、彼女はまだ自分でもそれに気づかぬように出来るだけ堪えに堪えて行こうと決心しているらしく見えた。
三月の或暮方、菜穂子は用事のため夫と一しょに銀座に出たとき、ふと雑沓の中で、幼馴染の都築明らしい、何かこう打ち沈んだ、その癖相変らず人懐しそうな、背の高い姿を見かけた。