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なおこ
菜穂子
堀 辰雄
楡の家 第一部「物語の女」山本書店、1934(昭和9)年11月<br> 楡の家 第二部「文学界」1941(昭和16)年9月号<br> 菜穂子「中央公論」1941(昭和16)年3月号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 88,758 字 · 173 页
菜穂子は、療養所にいる間絶えず何かを怖れるように背中を丸くしていた母とその母のいるところでは自分にろくろく口も利けないほど気の小さな夫とを送り出しながら、何かその母がわざわざ夫と一しょに自分に附添って来てくれた事を素直には受取れないように感じていた。それほどまで自分の事を気づかって呉れると云うよりか、圭介をこんな病人の自分と二人きりにさせて置いて彼の心を自分から離れがたいものにさせてしまう事を何よりも怖れているがためのようだった。菜穂子はその一方、そう云う事まで猜疑せずにはいられなくなっている自分を、今こうしてこんな山の療養所に一人きりでいなければならなくなった自分よりも、一層寂しいような気持で眺めていた。
此処こそは確かに自分には持って来いの避難所だ、と菜穂子は最初の日々、一人で夕飯をすませ、物静かにその日を終えようとしながら窓から山や森を眺めて、そう考えた。露台に出て見ても、近くの村々の物音らしいものが何処か遠くからのように聞えて来るばかりだった。ときどき風が木々の香りを翻りながら、彼女のところまでさっと吹いて来た。それが云わば此処で許される唯一の生のにおいだった。