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やくぜんやくご
薬前薬後
岡本 綺堂
「東京」1925(大正14)9月号、「時事新報」1926(大正15)年8月19~22日
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 6,091 字 · 12 页
なんでも多摩川のあたりから水蜜桃や梨などの果物の籠を満載して、神田の青物市場へ送って行くので、この時刻に積荷を運び込むと、あたかも朝市の間に合うのだそうである。その馬力が五台、七台、乃至十余台も繋がって行くのは、途中で奪われない用心であるという。いずれにしても、それがこの頃のわたしを悩ますことは一通りでない。
「これほどに私を苦しめて行くあの果物が、どこの食卓を賑わして、誰の口に這入るか。」
わたしは寝ながらそんなことを考えた。それに付けて思い出されるのは、わたしが巴里に滞在していた頃、夏のあかつきの深い靄が一面に鎖している大きい並木の町に、馬の鈴の音がシャンシャン聞える。靄に隠されて、馬も人も車もみえない。ただ鈴の音が遠く近くきこえるばかりである。それは近在から野菜や果物を送って来る車で、このごろは桜ん坊が最も多いということであった。それ以来わたしは桜ん坊を食うたびに、並木の靄のうちに聞える鈴の音を思い出して、一種の詩情の湧いて来るのを禁じることが出来ない。
おなじ果物を運びながらも、東京の馬力では詩趣もない、詩情も起らない。いたずらに人の神経を苛立たせるばかりである。