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のざらし
野ざらし
豊島 与志雄
「中央公論」1923(大正12)年1月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 19,100 字 · 39 页
」
「へえ? 八百八。」
「そら、伊予の松山の八百八狸って有名な奴さ。」
「へえー、なるほど……。」
日本六十余州を跨にかけたというその老人は、ただ口先だけで感心しながら、分ったのか分らないのか何れとも知れない顔付で、なお木和田五重五郎の名札を眺めていた。向う側にずらりと並んでいる無関心な男女の顔の二三に、薄らとした微笑が浮んだ。
「何とか読み方がありましょうね。まさかゴジューゴローじゃあ……ちょいと通用しぬくかあねえかな。」と云って老人は首を振った。「何せえ慾張った名前ですな。」
日焦けのした顔の皮膚がいやに厚ぼったくて、酔ってるのか素面なのか見当がつかなかった。昌作はぼんやりその顔を見つめた。と俄に、ぎいーとブレーキが利いて電車が止った。入口に先刻から素知らぬ風で向う向きに立っていた車掌が、大声に停留場の名を呼んだ。昌作は急な停車にのめりかけた腰をそのままに立ち上って、「失敬、」と口の中で云い捨てながら、慌てて電車を降りた。
――そうしたことが、いつもなら佐伯昌作の愉快な気分を唆る筈なのに、今は却って、寂寥と云おうか焦燥と云おうか、兎に角或る漠然たる憂鬱を齎したのである。