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いずこへ
風と光と二十の私と・いずこへ 他十六篇
坂口安吾『風と光と二十の私と・いずこへ 他十六篇』。同一底本的分册已合并为一书。收入:いずこへ、青い絨毯、石の思い、オモチャ箱、篠笹の陰の顔、天才になりそこなった男の話、二十七歳、母、魔の退屈、私は海をだきしめていたい、流浪の追憶。
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 119,879 字 · 242 页
文学そのものが人間的なものなのだから、根はそうあるべきもので、文人墨客という言葉は近代文学の文人には有り得ず、世俗の人々よりもむしろ根は世俗的現実的なものだ。
三枝庄吉は近代日本文学の異色作家、彼の小説の広告のきまり文句で、然し彼は私の知る限りに於ては、小説を書く以外にはつぶしのきかない日本唯一の作家であった。
彼の小説はいわば一種の詩で、彼の作品活動をうごかす根は詩魂であるから、苦吟、貧窮、流浪、ほかにお金もうけの才覚もできない無能者であるからと云って、然し彼が人間通ではないと思うと当らない。人間に対する彼の洞察は深く又的確であり、したがって、夢幻の如くに生きながら、世間一般の人々以上に即物的な現実性を持っていた。彼は浪費家であるけれども、根は吝嗇で、つまりキンケン力行の世人よりもお金を惜しみ物を惜しむ人間の執念を恵まれているのだが、守銭奴の執念をもちながら浪費家だ。近代文士が即物的な現実家だというのは、人間通であるから、人間に通じているとは自分に通じることでもあり、人間の執念妄執を「知る」ということは、つまり自分が「もつ」ということだ。だから人間というものが複雑なもので執着ミレンなものであるなら、近代文士はみんな複雑であり執着ミレンなもので、同時に然し彼は浪費家であり夢遊歩行家の如く夢幻の人生を営ん