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はるかなたび
原民喜戦後全小説
原 民喜
線上閱讀原 民喜《原民喜戦後全小説(はるかなたび)》,假名注音日語閱讀。JLPT N2,點詞查義。
N2 · 挑戰 · 新字新假名 · 60,577 字 · 124 頁
遥かな旅
夕方の外食時間が近づくと、彼は部屋を出て、九段下の爼橋から溝川に添い雉子橋の方へ歩いて行く。着古したスプリング・コートのポケットに両手を突込んだまま、ゆっくり自分の靴音を数えながら、
汝ノ路ヲ歩ケ
と心に呟きつづける。だが、どうかすると、彼はまだ自分が何処にいるのか、今が何時なのか分らないぐらい茫然としてしまうことがある。神田の知人が所有している建物の事務室につづく一室に、彼が身を置くようになってから、もう一年になるのだが、どうかすると、そこに身を置いて棲んでいるということが、しっくりと彼の眼に這入らなかった。どこか心の裏側で、ただ涯てしない旅をつづけているような気持だった。……夜の交叉点の安全地帯で電車を待っていると、冷たい風が頬に吹きつけてくる。街の灯は春らしく潤んでいて、電車は藍色の空間と過去の時間を潜り抜けて、彼が昔住んでいた昔の街角とか、妻と一緒に歩いていた夜の街へ、訳もなく到着しそうな気がする。
彼は妻と死別れると、これからさきどうして生きて行けるのか、殆ど見当がつかなかった。とにかく、出来るだけ生活は簡素に、気持は純一に……と茫然としたなかで思い耽けるだけだった。