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わすれのこりのき
忘れ残りの記
吉川 英治
線上閱讀吉川 英治《忘れ残りの記(わすれのこりのき)》,假名注音日語閱讀。JLPT N2,點詞查義。
N2 · 挑戰 · 新字新假名 · 193,050 字 · 383 頁
いや一日ではない。その頃の横浜芝居は、一昼夜といってよかった。朝は午前八時か遅くても九時には開幕する。晩のハネは午後十一時頃になる。その間ぶっ通しだから、三番叟から観る客は、朝、昼、晩と三度の食事を芝居の中で食べる人もあった。演し物は一番目といい二番目物といい、すべて通し狂言である。天下茶屋でも、妹背山でも、日蓮記でも、菅原伝授手習鑑でも、すべて序から大尾まで、つまり竹田出雲や近松浄瑠璃集にある通りを院本どおりそっくり上演するのであった。見でがあったことはいうまでもないが、演劇の骨格とか、浄瑠璃や小説の構成というものを知るうえで、ぼくにとっては、あれが知らず知らず、後の何かの基盤に役だっていたように思われる。
その賑座で大きな人気があり、あくどいがまた一種独自な芸風のあった市川紅車、荒次郎、市孝、英升などという達者な俳優たちの描いて観せてくれた数々の幻影は、今でもぼくの脳裡にはあざやかである。そしてそれから数十年の後、それらの老優たちの名が、たしか昭和十七、八年頃かと思うが、本所の寿座に演っていたようであった。何かでそれを知って、なつかしく思った事であった。