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わすれのこりのき
忘れ残りの記
吉川 英治
線上閱讀吉川 英治《忘れ残りの記(わすれのこりのき)》,假名注音日語閱讀。JLPT N2,點詞查義。
N2 · 挑戰 · 新字新假名 · 193,050 字 · 383 頁
少なくも、ぼくの気もちはそうだった。だから父が根岸の監獄にいると分っても、父と罪悪とを、あわせて考えることはできなかった。かえって、日頃恐い父が、なつかしくなり、子供心にも、父の孤独な姿が想像され、少しばかり涙が出た。
夏の終り頃であった。母は子供たち三人を学校へ出してしまうと、忙しげに自分で髪を梳き、束髪にきゅっと結んで、何か難しい書物だの鼻紙などを例の如く小風呂敷につつみ、千代を負ぶって「英ちゃん、またお留守番していてね」と、洋傘を手にしかけた。
その日まで、ぼくは父の事は母へは何も触れずにいたが、無性に父が恋しくなって「ぼくも一しょに行く」と云い出した。そして、下駄をはいて外へ出てしまった。母はおそらく当惑したことであろうが、何のかのと云いながらも、戸閉まりをし直して、黙ってぼくを連れて行った。まだ電車もなく人力車にも、もう乗れる身ではない。母は当歳の赤ンぼを負い、四ツの浜ちゃんの手をひき、炎天の長い道程を根岸まで根よく歩いた。今でこそ何でもない近さだが、当時は川沿いや田舎道をさんざん辿って、あの高い赤煉瓦の塀が見えて来るまでには、足も棒になるほどだった。