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わすれのこりのき
忘れ残りの記
吉川 英治
線上閱讀吉川 英治《忘れ残りの記(わすれのこりのき)》,假名注音日語閱讀。JLPT N2,點詞查義。
N2 · 挑戰 · 新字新假名 · 193,050 字 · 383 頁
ぼくは一日中、六区の雑踏をうろついていた。家には恐くて帰れない気がした。十二階の頂上に上がって、腕組みしたり、ルナパークの観覧席で時間を空費したりした。そして夜の十二時過ぎ頃、そっと、家へ帰ってみた。父は寝ていた。母は起きて何か縫物をしていたが、何も云ってくれない。けれど、ぼくの帰るのはやはり信じていたのであろう、いつもの通りぼくの寝床もしいてあった。
翌朝になっても、父も母も、ぼくのした事には何も触れて来ない。ぼくは父の前へ出て、ひと言、謝った。何か云い出すかと思いのほか、父はふと、間が悪そうな顔をした。いや、もっと複雑な、何とも云い現し難い顔を子のぼくへ見せた。そして「……おいく、茶でもお入れよ」と、云った。橋場のおせんべいを茶ウケに、母もそこへ来て茶をのんだ。せんべいをボリボリ噛みつつ、ぼくは涙がとまらなくなった。
その年、浅草の栄久町に一軒借りた。わずか四間だが、小庭もあり、まだ新堀も埋め立てられない頃の柳並木も近く、父も母も、やっとここでは、やや世間なみの暮らしに、ひと息つけたことと思う。
父はもう完全に、敗者の耐えに馴れ、隠居に甘んじ、小さい弟妹たちの揃った所で「お父さんは、こんな風だから、おまえ達は、兄さんを父と思え。