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わすれのこりのき
忘れ残りの記
吉川 英治
線上閱讀吉川 英治《忘れ残りの記(わすれのこりのき)》,假名注音日語閱讀。JLPT N2,點詞查義。
N2 · 挑戰 · 新字新假名 · 193,050 字 · 383 頁
と、終日奥で泣いていた母を見た日がある。――今なら桜木町駅から東京へは通勤する人さえ多いが、その頃では、そんなにも東京が億劫な遠方であったのだろうか。それとも、父の得手勝手で母をやらなかったものだろうか。今なお、その終日の母の嘆きが耳底にのこっているので、ぼくには何ともその事は不可解で仕方がない。
もっとも、尾上町を立退く間際には、水道料の滞納で、水道までよく止められたりしていた。そのくせ横浜気質というか、依然、金の出納などは、荒っぽかったようでもある。ある時など、急遽、水道税を納める為、母から百円紙幣一枚を渡され、局へ駈けつけたことなどある。当時の百円は大金なので、わざわざ人力車に乗せられて行ったのだが、水道局の窓口に立って、いざ金を納めようと思うと、母から預けられてふところに持っていた状袋がない。俥屋も一しょになって、血眼で探してくれたがついに見つからなかった。風の強い日であったのを覚えている。この時ほど、母に「困った困った」と嘆じられて、ぼくも共々色を失ったことはない。百円といえば浮沈にかかわる金であったかもしれないのだ。母が父からどんなに怒られたかは覚えていないが、何しろもうその前後は、せっかく尾上町へ出た機会も一瞬の望みに終り、再び暗い淵にむかって、母のあたまも乱れていたのかもしれなかった。