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もみノきはのこった

樅ノ木は残った

山本 周五郎

線上閱讀山本 周五郎《樅ノ木は残った(もみノきはのこった)》,假名注音日語閱讀。JLPT N2,點詞查義。

N2 · 挑戰 · 新字新假名 · 112,073 字 · 223 頁

青空文庫

甲斐は料紙をひろげた。

おくみが来た。甲斐は時刻を訊いてから、喜兵衛や舎人に広間で飲むように、それから寝間の支度をするように、と云った。おくみは躯を硬ばらせた、「お寝間はさっき仰しゃったように致しますの」

甲斐は頷いて筆を取り、おくみは黙ってたち去った。

甲斐は書きはじめた。広間のほうでは鳴物や唄の声がやみ、家の中は静かになった。

――雅楽頭の利分。

と書きながら、彼は思った。それがわかれば、証文の取交わしということも認められる。なにかあるだろうか。初め、雅楽頭と一ノ関のあいだに、六十二万石を寸断するという密契のあることは、久世大和守から茂庭周防に知らされたものであった。当時はまだ松平信綱が、老中に重きをなしていた、――松平信綱。甲斐は筆を止めて、眼をあげた。「伊豆守信綱」と彼は呟いた。

非常な衝動を受けたもののように、甲斐の顔はするどくひき緊り、双眸は前方の一点をみつめて動かなかった。

「――信綱の遺志だな、発頭人は信綱だ、雅楽頭ではない」甲斐はそう呟いた。

彼は筆を置き、両手を机に突いて、じっと眼をつむった。そうだ、と彼は思った。問題は自分たちの考えていたようなものではないかもしれない。