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かんかんむしはうたう

かんかん虫は唄う

吉川 英治

線上閱讀吉川 英治《かんかん虫は唄う(かんかんむしはうたう)》,假名注音日語閱讀。JLPT N2,點詞查義。

N2 · 挑戰 · 新字新假名 · 91,006 字 · 182 頁

青空文庫

――それからだよ。高瀬との争闘はね」

トム公は、生れてからまだ見たこともない二百円の紙幣をからだに持って、なんだか、足がふわふわした。

「そしてと――明日じゃない――明後日が競馬の初日だから、根岸の松林にある教会の裏へ集まるんだよ。アア、ほかの者もみんな知っているから……。いいかい、それを落しちゃいけないよ」

こう言って、彼女は、たくさんな人が歩いているのに、トム公の顔を抑えて、痛いほど接吻をして、伊勢佐木町の裏で放した。トム公は、眼が眩るほどきまりが悪かった。そして、決して嫌ではないけれど、お光さんの手を突っ放すようにして、掻っ払いのように、あわてて、人混みの中へ駈けこんでしまった。

彼は久しぶりで、あれ以来足を抜いているイロハ長屋の、暗い故郷を眼に描きながら、急いで歩いた。からだ中が金の重さのように感じられた。飢えたる亀田の家族や、目の見えない母の顔が、どんなに歓びにかがやくかを想像すると、トム公の胸にも言い知れない喜悦がいッぱいになる。

「牛肉を買って行こうか。おっ母あは甘い物が好きだ、風月の最中を買って帰ろうか」

トム公はいくたびも、そんな食料品屋の前に立って、やさしい出来心を起してみたけれど、二枚の百円紙幣をくずすことが怖くもあり惜しい気もして、とうとう何も買い得なかった。