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わすれのこりのき
忘れ残りの記
吉川 英治
線上閱讀吉川 英治《忘れ残りの記(わすれのこりのき)》,假名注音日語閱讀。JLPT N2,點詞查義。
N2 · 挑戰 · 新字新假名 · 193,050 字 · 383 頁
今、思い出そうとしても思い出せないほど度々だった。
何でもそれは年暮に迫っていた頃だった。南仲舎から帰って来ると、まだランプの明りもともっていない。しゅんと、凍てついたように家の内がひっそりしていた。小島の小母さんの声がひそひそ聞え、四つの浜子がシュクシュク泣いている。「どうしたの、どうしたの、おっ母さん」上がるやいなや、あわてて訊くと、「お父さんが血を吐いたのよ。そして今、お医者さんが帰ったばかりだけれど、そう御心配は無いでしょうと云う事だから……」と、母はあとの口を濁した。血と聞いて、ぼくは、どきっとした。日頃何かにつけて父へタテついていた心の咎めが、驚きと一しょに頭をつき抜けた。すぐ父の死を連想していたのかもしれない。
けれど母が小島の小母さんに話しているのを聞いていると、父の吐血は初めてではなく、これが三度めか四度めのようであった。そのうち二回までは父の遊蕩時代で、大森の“あけぼの”とか箱根の塔の沢などで寝込んだらしく、母はそばにも居なかったとの事である。後日、医者から母が戒告されて知ったのであったという。
今思えば、父は外人相手の商売上、盛んに各地の花柳界などを泳ぎ廻っている間に、すでに胃潰瘍の症状をもっていたもののようである。