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がらすどのうち

硝子戸の中

夏目 漱石

線上閱讀夏目 漱石《硝子戸の中(がらすどのうち)》,假名注音日語閱讀。JLPT N2,點詞查義。

N2 · 挑戰 · 新字新假名 · 52,702 字 · 105 頁

青空文庫

人通りの少ないこの小路は、すべての泥を雨で洗い流したように、足駄の歯に引っ懸る汚ないものはほとんどなかった。それでも上を見れば暗く、下を見れば佗びしかった。始終通りつけているせいでもあろうが、私の周囲には何一つ私の眼を惹くものは見えなかった。そうして私の心はよくこの天気とこの周囲に似ていた。私には私の心を腐蝕するような不愉快な塊が常にあった。私は陰欝な顔をしながら、ぼんやり雨の降る中を歩いていた。

日蔭町の寄席の前まで来た私は、突然一台の幌俥に出合った。私と俥の間には何の隔りもなかったので、私は遠くからその中に乗っている人の女だという事に気がついた。まだセルロイドの窓などのできない時分だから、車上の人は遠くからその白い顔を私に見せていたのである。

私の眼にはその白い顔が大変美しく映った。私は雨の中を歩きながらじっとその人の姿に見惚れていた。同時にこれは芸者だろうという推察が、ほとんど事実のように、私の心に働らきかけた。すると俥が私の一間ばかり前へ来た時、突然私の見ていた美しい人が、鄭寧な会釈を私にして通り過ぎた。私は微笑に伴なうその挨拶とともに、相手が、大塚楠緒さんであった事に、始めて気がついた。