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ごべんのつばき
五瓣の椿
山本 周五郎
Read 五瓣の椿 (ごべんのつばき) by 山本 周五郎 (やまもとしゅうごろう) in Japanese with furigana. JLPT N2. Tap a word for the meaning.
N2 · advanced · modern kanji and kana · 149,721 characters · 296 screens
四
彼は引返しながら云った、「松公じゃあねえな、誰だ」
「大きな声をだすなよ、わからねえのか」路地へはいってゆきながら、男は声をひそめて云った、「むささびの六だ」
「へっ」と云ってから、彼は急に立停り、ゆっくりと深く息をした、「――誰だって」
「人に気を悪くさせるなよ、上方からけえって来たんだ、さあ、あいびねえ」男は先に立って歩きだした、「うちにゃあもっとびっくらすることがあるぜ」
蝶太夫は男のあとからついていった。路地の中はすっかり昏れて、遊んでいる子供もなく、煮炊きの煙もおさまった長屋の家々では、夕餉を喰べる賑やかな声が聞えていた。――むささびの六となのる男は、鼻唄をうたいながら歩いてゆき、井戸端から三軒めにある蝶太夫の住居の格子を、声もかけずにあけて、さっさとはいっていった。肝を抜かれて放心したような蝶太夫は、ぼんやりと、まるで他人の家へでも来たように、戸口のところで立停った。
「さっさとあがんねえな」と家の中から男が呼びかけた、「おめえのかみさんは出てっちゃったぜ」
四
蝶足の膳のまわりに一升徳利が二つ。仕出し屋から取ったらしい肴の、喰べちらした皿や椀や鉢物が、油の燃えきって、うす暗くまたたく行燈の光に、さむざむとちらかっているのがみえた。