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あすなろう

あすなろう

山本 周五郎

「小説新潮」新潮社、1960(昭和33)年8月~9月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 19,925 字 · 41 页

青空文庫

そこで娘は泣きだしたが、言葉はもっと冷たさときびしさを増した。

「あたしこの人が好きだった」と娘は叫ぶように云った、「生れて初めて好きになった人なのよ、二十六になるまで男の人なんか見るのもいやだったのに、この人だけは、生れて初めて恋しいと思ったのよ、――それを兄さんは殺してしまった。昔あたしの大事にした人形を壊したように、兄さんはこの人まで殺してしまったのね、あんまりじゃないの」

「人ちげえだ、おらあおめえの兄なんかじゃあねえ」

「そうよ、兄さんなんかであるもんですか」と娘は云った、「あんたはただの悪党、ただの人殺しだわ、誰よりもむごい、血も涙もない人殺しよ」

文次はあすなろうからはなれ、力のぬけた足を庇うように、よろめきながら、ゆっくりと歩きだした。

「どなたか来て下さい」と娘はつんざくように絶叫した、「ひとごろし、――誰か来て下さい、人殺しですよう」

「おらあ兄きじゃあねえ」と歩きながら、文次はうわごとのように呟いた、「そんな者じゃあねえ、人ちげえだ」

傷は痛まなくなったようだ。けれども出血は止らないとみえ、歩いてゆく足跡が、一歩ずつ血に染まった。