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ちくしょうだに
ちくしょう谷
山本 周五郎
「別冊文藝春秋」1959(昭和34)年4月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 69,788 字 · 138 页
ような者が動きたがらないのは、当然のことだったかもしれません」
娘のゆきは頭もかなりよく、健康に育っていった。読書欲もつよいし、手跡の筋もよかった。礼儀作法も武家なみにきびしく躾けたが、よくのみこんでそれを守った。これはものになると思い、この娘だけでも人並に育てあげれば、そこから道がひらけるかもしれないと思った。――自分の眼に狂いはないと信じていたが、ゆきは十六歳の秋、堕胎の失敗で急死した。娘がいつそんなことをしたか、自分はまったく知らなかったし、四カ月という胎児を見るまでは信じられなかった。
「私は妻を問い詰めました、妻は知っていたのです」老人はまた自分の手をみつめ、暫く黙っていてから、静かに続けた、「――私は妻を折檻しました、ばかなことですが、殺してしまおうかとさえ思いました、こごさには折檻される意味がわからないようすでしたが、やがて私に云い返しました、ここはちくしょう谷だ、自分にも覚えがある筈だ、と」
正内老人は長い金火箸で炉の火を直し、立ちあがっていって、湯呑の中の冷えた茶をあけると、その蔀窓のところに立って、ながいこと外を見まもっていた。