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よっかのあやめ
四日のあやめ
山本 周五郎
「オール読物」文藝春秋新社、1954(昭和29)年7月号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 19,200 字 · 38 页
一
一
二月下旬の寒い朝であった。
六七日まえからすっかり春めいて、どこそこでは桜が咲きはじめた、などという噂も聞いたのに、その朝は狂ったように気温がさがり、家の中でも息が白く凍るほどであった。――早朝五時ちょっと過ぎたじぶん、千世が居間で鏡に向っていると、家士の岩間勇作が来て「来客です」と告げた。もちろん戸外は明るくなっているが、まだ客の来る時刻ではなかった。
「深松さまです、裏殿町の深松伴六さまです」と勇作は云った、「たいそうおいそぎのようすで、大事が起こったからすぐおめにかかりたい、玄関で、と申しておられます」
大事という言葉が千世の耳に刺さった。良人の五大主税介はまだ寝ていた。
「わたくしがまいります」
千世はこう答え、紙で手早く指を拭きながら立ちかけたが、ふと吃驚したように鏡の面を覗いた。いまそこに人の顔が映ったのである。自分のではない、蒼白く痩せた老婆の顔のようであった。
――いつかもこんなことがあった。
覗いた鏡にはむろん自分の顔しか映っていない、千世は胸騒ぎを感じながら立ちあがった。
深松伴六は玄関に立ってふるえていた。彼は七十五石の近習番で、年は二十五歳、良人より三つ若いが、二人は兄弟のように仲がよかった。