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わすれのこりのき
忘れ残りの記
吉川 英治
吉川英治『忘れ残りの記』。同一底本的分册已合并为一书。收入:忘れ残りの記、年譜。
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 193,050 字 · 383 页
つまり一部屋ずつ売りに出したのである。それが、極秘にだから、道具屋の主人、内儀さん、若い衆などが、大八車に提灯をつけて、世間の寝しずまった頃、裏口からおとずれると、女中も起さず、母と父が迎えに出、やがて二階から西洋タンスやら絨緞やら額やらテーブルなどを担ぎ下ろしてくると、下に佇んでいる父が「静かに、静かに」と、世間へ気がねそうに頼んでいた。そういう世間であり、人への体裁を必要とした当時の世風であったことを、一応考慮に容れて貰わないことには、父の「静かに、静かに」と道具屋を拝むように云っている心理は、今日では、何とも、通用しない話であろう。
このときの道具屋には、余談がある。
それからずっと後になって、ぼくの家も、見るかげもない、どん底へ落ちてから、どう知ったのか、その道具屋の主人が、ある日、手土産を持って「おかげさまで、あの折は、たいへん儲けさしていただいて、それから店も順調に行っておりますので」と、お礼に来たそうである。
それほど、道具屋に感銘されたわけだから、当時でも世間の経済観念が、みな父みたいだったわけでは決してない。セチ辛かった事や、家庭消費の面の地味だったことは、到底、今日この頃のような、ふんだんなものではなかった。