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わすれのこりのき

忘れ残りの記

吉川 英治

吉川英治『忘れ残りの記』。同一底本的分册已合并为一书。收入:忘れ残りの記、年譜。

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 193,050 字 · 383 页

青空文庫

店の徒弟机は三つ並んでいた。それに硯、朱筆、印台、刻刀などの印刻道具一式が揃えてある。もうじき年期明けとかいう倉どんが上座にいた。まん中の机にいた正どんは病気で実家に帰っているとか。その空きを一つ措いて「きょうから、おまえはここに居るのよ」と、おかみさんは指さしてぼくをそこへ据え、「倉吉、いじめちゃいけないよ、こんど来た小僧で、英どんというのだよ、おまえ兄弟子なんだから、よく面倒をみておやり」「へい」と、倉どんは印材挟みを左に、右の手に刻刀を持って、印材の面をパリパリと彫っていた細やかな手先をちょっとやめて、「よろしく」と、猫背の恰好をした儘、小肥りな体をぼくの方へ折り曲げて見せた。

店にはめったに客はなかった。仲通りの仲買店とか、関内芸者の花柳地が近いので、お茶屋の帳場印だの、往来の客がふと実印や認め印などを稀に註文しに入って来るぐらいなものだった。それでどうして関内の目抜き通りに商戸を張っていられるのかといえば、べつに二、三の外交員がいて、税関、裁判所、市役所、商館などの大所をたえず註文取りに廻っていた。そしてたとえば郵便局の消印みたいな大量納品になると、これは同業間の入札になるらしく、旦那自身がそれには出向いて行くといった風の経営なのである。