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わすれのこりのき
忘れ残りの記
吉川 英治
吉川英治『忘れ残りの記』。同一底本的分册已合并为一书。收入:忘れ残りの記、年譜。
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 193,050 字 · 383 页
ところが或る夕、ぼくが活版所から帰ってみると、家の門口にその看板がかかっていた。どうにも変な気がしてならなかった。父はと見ると、もう一週間ほど前に床を払った一室に机をかまえて、算木筮竹をおき、易書などをわきに積んで、その晩も頻りに漢書を読み耽っていた。隣りの部屋で、母にお給仕してもらいながら晩飯を食べつつそっと「易のお客さんあるの」と、ぼくが小声で母に訊くと、母は笑ってただ顔を横に振って見せた。
父はやっと健康をとりもどしたらしい容子に見えたが、同時にこの頃からまた、ふと酒を飲み初めるようになった。家に帰った当座の父は「煙草だけはどうも廃められないが、酒だけは、これがいい機会だから、こんりんざい、もう廃める」と断言して、母を感激させ、母はうれし涙をながさぬばかり、その事をぼくらにまで何度も告げてよろこんでいたが、それが結局、つかの間だったわけである。「おいく、もう二合ばかり買いにやれ」とか「おいく、もう一本つけろ」とかいう、ありきたりな大酒癖の常套語が、毎晩の貧しいランプの灯が、気のひけるほど石油を吸うのと同じように、夜毎、母の財布に血を絞る思いをさせた。