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わすれのこりのき
忘れ残りの記
吉川 英治
吉川英治『忘れ残りの記』。同一底本的分册已合并为一书。收入:忘れ残りの記、年譜。
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 193,050 字 · 383 页
依然、父は病床の儘だし、その暴君ぶりは募っても衰えはしない。前述の義兄の児の世話も大変だった。一体、母はどうして毎日の家計をやったか。芋粥で一食を過ごしたり、ランプの石油も買えない晩もあったりして、子供心にも、極貧さは身に徹していた。
わけて又、父は煙草好きなので、煙草が切れると、不機嫌を超えて狂人の相になり「煙草がないっ。煙草ぐらい、何とかならないのか」と、病床で喚いたりした。そんな時の母のおろおろ姿は見ていられなかった。母は唯一枚の着ている袷まで質草に入れ、以前、みどり屋の暖簾としていた物を腰に巻いて外へも出られずにいた事もあった。この当時、母がふと洩らした呟きで今でも忘れ難い一語がある。それは「――朝、戸を開けなければならないと思うと、私は毎朝、夜が明けるのが怖いよ」と云ったことだった。
父は自分がいつまで病床から起てない焦躁を、やたらに子のぼくへ向けて爆発させた。ぼくには職を探す能力が足らなかった。暇があると書物にばかりかじりついていた。その姿が怠け者と見え、腑がいなく思えるのであろう、何かで激語になると「この、穀つぶしめ」とぼくを呶鳴りつけたりした。