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わすれのこりのき

忘れ残りの記

吉川 英治

吉川英治『忘れ残りの記』。同一底本的分册已合并为一书。收入:忘れ残りの記、年譜。

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 193,050 字 · 383 页

青空文庫

――けれど唯、また家を離れてみると、あんな悲惨なわが家なのに、相変らず家のことのみが忘れられない。ぼくの性分なのか、余りに母の肌がよすぎたせいなのか、ぼくが出た後、どうして暮しているかと、そればかりは念頭を離れなかった。

すると、住込んでからまだ一ヵ月と経たない或る夕方のこと、九つになる弟の素助の影が、一人で前の舗道を行ったり来たりしている。店にいたぼくは、すぐ胸騒ぎを覚え、あわてて外へ出た。そして「何しに来たの? 家に何かあったの?」と訊ねたところ、弟はベソを掻き掻き、お使いに来たわけを訴えた。それは何でも「きのうから家じゅう御飯も何も喰べていない……」というような意味だった。途方に暮れるとはこんな時のことか。ぼくは胸がつぶれてしまい、どうしていいか分らなくなった。唯、咄嗟には、ちょうど持合せていた五銭白銅が一枚あった。それはこの頃毎晩のように九時か十時というと、主人の御老母の部屋へよばれて、按摩をするのがぼくの日課となっていた。ぼくはさんざん父の足腰を揉まされた経験があるので「英吉がいちばん上手や」と御隠居にほめられていた。そして数日前に、御褒美に貰った五銭なのである。