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わすれのこりのき
忘れ残りの記
吉川 英治
吉川英治『忘れ残りの記』。同一底本的分册已合并为一书。收入:忘れ残りの記、年譜。
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 193,050 字 · 383 页
奥田さんなる実業家の夫妻を、ぼくは太田の赤門前時代から見知ってはいたが、父との関係については殆ど何も知る所がない。唯、横浜における小成功者ではあったようだ。その人が郷里へ引退するにあたり、父の悲境を知って、当時相当額の貸金を返してくれた上、日進堂の事業を父へ任せて行ったというのが実情らしかった。そんな風に母から聞いたと覚えている。
いずれにせよ、ぼくの両親にとっては、再生の救いだった。尾上町へ移って以来は、父も長年の病床を出て元気づき、ちりぢりに外へ働きに出されていた妹たちも母の膝下に帰り、ぼくも又、奉公先から呼び返されて、こんどはわが家の一店員として帳場格子の中に坐らせられた。小さい家の歴史でいえば、ま、小康時代といったようなそれからの一年余であったのである。
その日進堂の位置は、今日の横浜でもそう変っていず、桜木町駅から大江橋を渡って左側の、いま朝日新聞社支局となっている辺りである。
今日とその頃とのちがいは、ぼくの少年の頃の尾上町二丁目界隈は、関内芸妓の狭斜の町と織り交ざっており、日進堂の並びにも「金春」だの「千代本」だのという御神灯の格子先が幾軒もみえた。