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わすれのこりのき
忘れ残りの記
吉川 英治
吉川英治『忘れ残りの記』。同一底本的分册已合并为一书。收入:忘れ残りの記、年譜。
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 193,050 字 · 383 页
ヘコ帯紺がすりで、沢庵漬や干魚を提げたり、共同水道へ、水汲みに行くなどは、初めはテレたが「Tさんとこのお弟子さん」と、長屋中は親切にしてくれた。そのうちに長屋端れの共同水道へ水汲みにゆくのも、ひそかな愉しみになっていた。折々、水道栓でぶつかる初々しい娘があった。紙人形のように薄手で弱そうな子であった。露地で逢っても俯し眼に過ぎるだけだった。が、彼女の家の裏は、こっちの格子先だから、彼女の朝夕の声も、家族の暮らしぶりも、居ながらにしてよく分った。
花簪や花櫛の摘み細工、と云っても、現代人には通じ難いが、下町娘の結綿や桃割などの髪によく挿したそれの造花仕事を、一家中でやっていた。両親も兄弟も、みな上方弁なので、彼女も東京生れではあるまい。「N子、N子」と呼ばれるのを、つつ抜けに聞いているから、ぼくは名まで知っていた。自分の思い過ぎか、ぼくがドブ板を踏んで外へ出ると、彼女も買物に出て来たりした。近くの縁日でもよく行き会った。唖蝉作の流行歌――ああ夢の世や夢の世や、のメロディがどこかでする青白いアセチレン瓦斯の明滅が、ひどく印象的にぼくへ彼女を焦きつけた晩もある。