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わすれのこりのき

忘れ残りの記

吉川 英治

吉川英治『忘れ残りの記』。同一底本的分册已合并为一书。收入:忘れ残りの記、年譜。

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 193,050 字 · 383 页

青空文庫

当時は、お弁当の配達屋さんというのがあって、毎朝、箱車を曳いて勤め人の家々から、お昼の弁当箱を集めて歩く。そして正午までに、それぞれの主人の出勤先へ弁当を配達してくれるのだった。

その配達屋も日曜日は休みである。ところが、父はその朝出がけに「英と、きの(妹)に弁当を届けさせろ」と母へいいつけて出たらしい。ぼくは、ぼくより二ツ年下のきのと一しょに一本の番傘を斜めに持ちあい、大あらしの中を二人とも裸足で、海岸通りの桟橋会社まで、父のお弁当を届けに行った。――その時は父も上機嫌で、会社の小使部屋で、兄妹に一品洋食を取ってくれたり褒めたりしてくれた。そんな時は、父の姿が又なく温かな大きな父に見えた。

ぼくは子供の頃から、何が嫌いといって、牛乳ほど嫌いなものはない。何でも四ツ五ツ頃、大病を患って、ムリヤリに牛乳を飲ませられたことが原因らしいのである。

それの嫌いは、この年になってもまだ直らない。家族が牛乳を飲むのに使ったコップは、いくら洗ってあっても、口のそばへ持ってくると「――牛乳を飲んだね、このコップで」と、すぐ分ってしまうのである。バタ、チーズは何でもないのに、牛乳と聞けば胃が拒んでしまうのだ。