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わすれのこりのき

忘れ残りの記

吉川 英治

吉川英治『忘れ残りの記』。同一底本的分册已合并为一书。收入:忘れ残りの記、年譜。

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 193,050 字 · 383 页

青空文庫

日頃から父の取巻きらしいそれらの人々が散々馬鹿騒ぎをして帰った後で、母が何か一言父へ恨みを云ったとかで、父が立腹し出したことがあった。この時も父はどこからか刀を取出して、「斬ってしまう」と、それを抜いて母を脅した。母は裸足で裏庭へとび降り、幼い妹たちを抱えて夜半まで塀の外にかがみ込んでいた。

そういう後では、父はさらに大酒を仰飲って「男の子は男親につくのだ。おふくろの後など追うな。外へ出てゆくと家に入れないぞ」などと呶号し、ぼくらはおろおろ泣くだけだった。

やがて父も二階で酔い臥した様子なので、こっそり裏木戸から母の姿を探しに出た。世間も寝静まっている頃なのに、母はぼくらを抱いてなお動こうともせず、まるで芝居の愁嘆場そのままだが、袖口に顔を埋めて、「……どうしてあんな恐ろしい人へ嫁いできたのだろう」と、くどくどと恨んで泣き、「……おまえたちさえ産んでいなければ」と、身もだえして泣いた。

ぼくら小さい子供らになだめられつつ、その中で、泣けるだけ泣いてしまう事だけが、せめて母が諦めに帰ってくる唯一の方法か、心の処理であったようである。だからぼくは暴逆な父の姿と、母の泣き顔の像とは、今でも絵に描けそうなくらい強い印象を網膜のうちにもっている。